戦後80年を経て、戦争被害受忍論を乗り越え、戦争被害者に対する 正当な補償を求める会長声明


戦後80年を経て、戦争被害受忍論を乗り越え、戦争被害者に対する
正当な補償を求める会長声明


  今年は1945年(昭和20年)の敗戦から80年目の年である。1931年(昭和6年)の柳条湖事件に始まる満州事変から1945年(昭和20年)のアジア・太平洋戦争終結まで15年続いた戦争では、軍人軍属以外に、国家総動員体制のもと「銃後の守り」を強いられた多くの国民(ここには当時の植民地出身者も含まれる)が命を奪われた。生存者であっても、心身に障害や傷跡を受け、長年にわたり多大な労苦を余儀なくされた。特に、戦争末期空襲や地上戦が行われた地域では、被害者の大多数は民間人であった。
  しかし、これら民間の戦争被害者は、原則として国家による救済が認められず、拒否され、幾多の訴訟も提起されたが、いわゆる「戦争被害受忍論」により退けられてきた。その論理は、「国の存亡にかかわる非常事態にあっては、国民のすべてが、多かれ少なかれ、その生命、身体、財産の犠牲を耐え忍ぶべく余儀なくされたのであって、これらの犠牲は、いずれも、戦争犠牲または戦争損害として、国民のひとしく受忍しなければならなかったところであり、一種の戦争損害として、これに対する補償は、憲法の全く予想しないところというべきである」とするもので、在外財産補償請求事件の最高裁判決(最大判昭和43年11月27日)の中で用いられ、名古屋空襲訴訟事件の最高裁判決(最判昭和62年6月26日)において、生命・身体損害に対する損害に拡大され、「戦争犠牲ないし戦争損害に対しては単に政策的見地からの配慮が考えられるにすぎないもの、すなわち、補償のために適宜の立法措置を講ずるか否かの判断は国会の裁量的権限に委ねられるものと解すべき」とされ、以降、戦争被害に対する国家補償を請求する訴訟で幾度となく引用されてきた。
  その結果、国による戦争被害に対する補償は、国と「特別な身分関係」にあった者の公務上の被害、「特別の権力関係」にある者の業務上の戦時災害(準軍属)、「国が『特別』と位置付けた被害に対する援護制度」に限定され、これらに含まれない被害者は何ら手当がされない状態が続いている。恩給や援護制度による軍人軍属と遺族に対する補償の支給総額が実に60兆円に上ることと比較して著しく均衡を欠くことが明らかである。
  そもそも、国民が「ひとしく受忍」しなければならないと言いながら、現実に受忍を強いられるのは、実際に生命・身体に対する被害を受けた者であり、被害者のみに特別の犠牲を強いるものである。国は自らの権限と自らの責任において開始した戦争により、国民の多くの人々を死に導き、傷害を負わせ、多大な損害を与えたのであって、その被害の甚大なことは、到底一般災害の比ではないのであって、国が十分な救済策を執るべきことは多言を要しない。被害を耐え忍ぶ義務を被害者のみに課すことは、国による戦争遂行の結果責任を最も被害に苦しむ国民に負わせ、国や指導者の戦争遂行責任を免じることに他ならない。「戦争被害受忍論」を克服し、戦争被害を直視し、国家補償を求めることは、痛ましい戦争を顧み、再びその惨禍を繰り返さないために欠くことができないことである。
  1975年(昭和50年)11月15日、日本弁護士連合会の人権擁護大会は「民間戦災者に対する援護法制定に関する決議」を採択した。しかし、その後も国会、内閣、裁判所のいずれも、この問題に向き合うことを避け続けている。2024年(令和6年)日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)がノーベル平和賞を受賞した際、代表してスピーチに立った田中熙巳氏は、「原爆で亡くなった死者に対する償いは、日本政府は全くしていないという事実をお知りいただきたい。」と訴えた。また、2025年(令和7年)の通常国会では、空襲被害者の労苦を慰謝する法案の提出が超党派の議員連盟により試みられたが、約16億円規模とされる法案の提出さえ実現できなかった。戦後80年を経ても、「戦争被害受忍論」が戦争被害者の救済を阻む状況は、全く改善されていないと言わざるを得ない。
  当会は、内閣と国会が「戦争被害受忍論」に固執することなく、現実の戦争被害を直視し、日々刻々と被害者が亡くなる中、喫緊の課題として民間人の戦争被害を補償する法整備を早急に進めることを求めるものである。

  2025年(令和7年)12月23日

京都弁護士会                
会長  池  上  哲  朗
      


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