早くここから降りなさい


今から2年程前に行ったネパールでのトレッキングの話である。
目的地はエベレストベースキャンプ近くのカラ・パタール(標高5545m)。中継地点のナムチェ(標高3440m)から4000m付近の町まで8時間もかけて登りきったところで、ある問題が起こった。いわゆる高山病のことである。この町に着いたころには、2週間分の荷物を持って山を登っては下っての繰り返しであったことから、精神的にも肉体的にも疲労がかなり蓄積していた。実際、若干の頭痛がして鼻水が止まらないという症状があった。
  私は、やっと休憩できたという安堵の思いで食堂に入りお茶を飲んでいた。そうしたところ、突然、若い男が私の方へと近づいて来て、「あなた、顔色がやばいよ。早くここから降りなさい。」と話しかけてきた。
  聞くと、彼は韓国人で職業は医者であるという。
私は彼に対し怪訝な顔をして、「なんで降りなきゃならないの?」と答えると、彼は仕方がないなという顔をして、「応急処置でとりあえず治療をしてやる。」と言ってきた。
  こっちも仕方なく付き合ってやっていると、薬でもくれるのかと思いきや、いきなり頭に4,5本の針を打ち込んできた。
  「おい、おい、おい!」
  とっさに日本語で突っ込みを入れたが、彼は素早く中国針のような長針を私の頭にプスプスと突き刺していった。
  私は一瞬驚いたが、好奇心で付き合ってしまった手前、とりあえず、この若干怪しい自称医者であると言い張る韓国人の言う通りにした。食堂でじっと頭に針を打ち込まれた状態で、「俺はハリネズミか!」と心の中で突っ込みを入れながら、4,5分の間じっとしていた。すると、突如、頭からどろどろと血が滴り落ちる感覚を味わったのだ。
  一瞬、やぶ医者に引っかかった!と思った。が…
  しかし、これは血ではなかった。
  手で触れて分かったのだが、若干ぬるっとした水分が頭からどろどろと流れ出てきていたのであった。
  後で気づくことになるのだが、私の顔全体がこのときすでに膨張し、むくれあがっていたのだった。
  この事態を聞きつけた宿のおばちゃんもやって来て、「先月ここに来た日本人も高山病で死んだ。早朝にヘリを呼んだが、ヘリに乗る直前に息絶えて。ほんといい迷惑だった。あんた、日本人で病気しているのなら早く帰れ!」などと、蠅を追い払うかのようなジェスチャーをしながら、失礼なことを言ってきた。
  何だかよく分からない状況となってしまったが、「俺は病気じゃないから絶対に降りん!」とゴネていると、韓国人及び宿のおばちゃん、ガイド、なぜか無関係の旅行者たちが私を取り囲んで、「お前は馬鹿か。帰れ。」と言いまくられ、いつの間にか私の周りで「ゴーバック」コールが始まっていた。
  このときの私は、渋谷の道玄坂でラッセンの絵画を買わされそうになっている大学生のような状態となっていた。
  私は、この状態を何とか打開するために、「金をくれるなら降りてやるわ!」などと意味の分からないことを言い放ちながら、少々、キレ気味で、もう意地になって抵抗していた。
  そうこうするうちに、「じゃあ、デジカメで顔を撮ってみろ!」ということになった。
  撮った写真をみると、驚いた。
顔が水死体みたいにむくれあがっていたのだ。

  その後、私が韓国人に感謝の握手をして、すぐさま下山したことは言うまでもない…。
  高山病とは、なってみないと分からないし、なっても分からないという恐ろしい病気だった。
  「自分の事が一番よく分かっていないのは、自分である。」ということである。



北峯  功三(2010年5月24日記)


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