文系と理系


私は、学生時代、理学部~大学院で地球科学を専攻していましたので、いわゆる「理系」弁護士ということになろうかと思います。

しかし私は、人を「理系」と「文系」という2つに分ける考え方について、大学受験以外の文脈では、あまり有益な類型化ではなく、数々の残念な思い込みを生み出す温床となるミスリーディングなものと捉えています。以下、そのような考え方に囚われるのはいかがなものかという立場から批判したいと思います。

そもそも「文系」と「理系」という概念の定義段階から大問題があると考えています。
「理系」については、なんとなく、
自然科学や技術分野に親和性の高い人々
というコンセンサスがあるように感じますが、「文系」を積極的に定義できるのでしょうか。例えば、
文学的素養の高い人々
というように括ろうとすると、どの畑の人であれ区々なので、結局、個人差の範囲になってしまうのではないか、という問題があると思います。

かつて私がIT系の会社で仕事をしていたころ、「自分は文系だから」という言葉を多用する営業の人にイラッとして、上述したような論旨を展開した挙句、「文系」とは、
(仮に、「理系」が定義できるとしてとしても)「理系」ではない
という程度の意味しかなく、大体の文脈において、
「自分は技術が分からない」と言っているに過ぎない
と認めさせ、大人気なくやり込めたことがあります。

この点、
Wikipediaの「理系と文系」
にも、
世間でいうところの「文系の人」とは、「理数系科目、とりわけ数学が嫌いな人、苦手な人」とされており、対する「理系の人」とは、「理数系科目、とりわけ数学が嫌いではない人、苦手ではない人」であるとされている。
という記述があり、私の独りよがりではなさそうです。

そういった曖昧なグルーピングでしかない以上、区別できたとしても両者には相当の多様性が含まれることが必然です。したがって、
○系の人はこのように考える
というような決め付けは、極めて多数の例外を含まざるを得ず、したがってあまり有益ではない筈です。しかし、現実には、そういう言説をとてもよく目にします。

例えば、この文章を書いている2018年4月6日時点で、「理系」でGoogle検索したときのトップの結果だった、
「理系と文系の違いや文理選択のポイントを知って将来の進路を考えてみよう」
(工学スタイル(久留米工業大学))
によれば、文系脳と理系脳と違いがあり、
「Aさんは300円を持って出かけました。170円の買い物をしました。お釣りはいくらでしょう?」
という問いに対し、
文系は「代金は170円だから、200円をレジで渡したはずだ。だからお釣りは30円」と支払いの場面をイメージして考えるのに対し、
理系は「所持金は300円だった。代金は170円だから300円-170円=130円がお釣りだ」とシンプルに考えるんだだそうです。
前者は、折角、普通300円全部出すことはないというということに思い至る思慮深さがありながら、何故、問には、300円の内訳が明らかにされていない以上、100円硬貨3枚とは限らないことをすっとばしてしまう短慮に平気でいられるのか理解に苦しみます。

あるいはリンク先の筆者は、そういうアンビバレントさこそが「文系」的な資質だという深みのある(?)メッセージを込めているのかも知れません。
また、あるいは、リンク先の記事自体が、無理がある前提に対して、無理やり答えをつけようとするとする試みであるので、それを暗に仄めかしているのかも知れません。

閑話休題。
人のモノの考え方には、実践派vs理論派、定性的思考vs定量的思考、直感型vs分析型等、様々な対立軸があることに異論のある方は少ないと思います。概ね、理論派で定量的で分析型なのがいわゆる「理系」と親和的というイメージがあるような気もします。しかし、これらは殆どどんな分野の中でもアプローチの違いとしてありふれた考え方の相違に過ぎないことは、自明ではないでしょうか。私が、法律の勉強をする間もそれは実感しました。

少なくとも私の時代では、大学に進学すれば、学問は、「文系」と「理系」とに区分されるのではなく、人文科学、社会科学、自然科学の3分類となりなりました。大学入試を終えたら、「文系」「理系」という括りの支配からは、卒業してもいいのではないでしょうか。

とはいえ、宇宙のニュースや、物理化学的な話、技術分野の話には大いに興味が惹かれれますし、化学式や数式を目にすると、その意味するところをつい考えてしまうことは否定できません。なんだかんだで、これが理系脳なのかも知れませんね。

皆月  健太郎(2018年5月14日記)


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