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私は、本を読むのが好きで、よく本屋に行っては数冊の本をまとめて買って、これを貪り読むということを繰り返している。
先週の日曜日も、暇にまかせて本屋へ赴き、先日芥川賞を受賞した「共喰い」(田中慎弥著、集英社)や、「苦海浄土」(石牟礼道子著、河出書房新社)など数冊の本を買ってきた。前者の作品は、芥川賞受賞時の作者の発言でも世間の耳目を集めたものであり、記憶に新しい話題の作品である。作者と自分とが同郷であることを知り、なんとなく興味をもって手に取った。他方、後者の作品も、言わずと知れた著名な作品で、水俣病に苦しむ患者やこれを取り巻く社会についてのルポタージュである。このたび、河出書房新社の世界文学全集(池澤夏樹=個人編集)のひとつとして出版された。美しい装丁に思わず惹かれ、衝動的に購入してしまった。
他にも、何冊か購入したが、まずはこの2冊を交互に読み始めた。まったく毛色の異なる2冊であり、これを交互に読むというのはなんとも節操がない。節操がないのであるが、この2冊を交互に読みたくなる理由があった。
「遅かったやないか。どこ行っちょったそか。」「夕方じゃけえのう。先、行っちょけ。 わしが行くの待たんでやりよってもええぞ。釘針使うんぞ。」(「共喰い」より引用。)
「 おるが刺身とる。かかは米とぐ海の水で。沖のうつくしか潮で炊いた米の飯の、ど げんうまかもんか、あねさんあんた食うたことのあるかな。そりゃ、うもうござすばい、 ほんのり色のついて。かすかな潮の風味のして。」(「苦海浄土」“帯”より引用。)
いずれもその土地の言葉を豊かに用いて、物語が紡がれている。とりわけ、「共喰い」に関しては、どうやら私が中学、高校を過ごした下関(山口県)の言葉が使われているようで、言葉遣いのみならず、そのイントネーションまでもが体の中で反復されていくのである。「苦海浄土」のほうも、私自身は水俣の言葉を使うことはできないけれど、それでも、そのリズムや音の響きに、思わず引き込まれ、その情景が立ち現れるのである。
そのようなわけで、この2冊を行ったり来たりして、二つの土地の言葉を味わいながら読書を楽しんだのである。
思えば、ここ京都にも、美しい「京ことば」がある。日中、業務に携わるなかでも、折々に触れて、「京ことば」を聞いている。よそから来た私にとっては、「京ことば」もまた新鮮だ。私は、京都で弁護士として働き始めたばかりであるが、この「京ことば」が、やがて郷里の言葉と同様に、体に染みつき、我が言葉としてあやつれる日が来るまで、京都のみなさまと言葉を交わし、思いを通わせたいと願う今日この頃である。